この夏休みに得たこと

日本に帰国してから、はや一ヶ月。
いろんな事情が重なり、帰国してからの報告文がこんなにも遅れてしまって気になっていた人たちには本当に申し訳なかった。多少忙しくても、こういった報告は優先的に早めにしておかないと書く機会も気力も薄れていくということに気づいた。大切なことを見逃すところだった。
11月5日現在、さすがに一ヶ月もあればすっかり旅行疲れもとれて、普段の大学生活に無事戻っている。前期と打って変わって後期は授業数が比較的少ない。いやむしろ前期が鬼のように詰まっていた。再履修なんてするもんじゃありません。そしてあんなにも詰め込んでいたのに関わらず、期末試験の準備と平行して旅の支度も同時にこなしていた頃が3、4ヶ月前。精神的な山場を迎えていたところだった。

この夏休みの企画を実行した理由には自分の今までの背景から説明できるものがある。この計画を初めて公開したときを思い出すと、周りからは突然のことで驚かれたことと察するが、実は少なくとも去年あたりからこのような展開があるんじゃないかと自分の中ではシナリオが徐々に作られていた。昨年、京都を駆けだして北海道や屋久島まで自転車で訪れたことも、大きな流れで考えれば、必然であったかのようにも思えてくる。

幼い頃から父の影響で転勤を数多く受けてしまった自分には、過去に住んでいたところなどの思い入れのある地がいくつかある。経歴から言ってしまうと、岡山の倉敷で生を受け、→横浜→NY,Ardsley→千葉県松戸市茨城県つくば市京都市、と現在に至る。
公にこそ言ってはいなかったが、これらの場所を今もう一度見に行かなくてはならないという使命感が自分にはあった。
しかしそうだからと言ってこれが自転車で旅立つ理由とは直接には結びつかない。そこに至るにはさらに遡る必要がある。

自分が生まれて始めて乗った自転車は祖母からいただいたものだったと記憶している。補助輪付きの、某有名なネズミが描かれたかわいい黄色の自転車であった。横浜で住んでいたときの集合住宅の表広場で始めて補助輪をはずしてこいだときのことを今だに覚えている。筑波で中学、高校まで通学していたときにも、祖母からまた送られてきた自転車を愛用していた。大型径のママチャリで、軽快な上走りがよかった。しかしわざわざこうして祖母が自転車を送ってくれた理由として、祖母の家系が自転車の小売店だったことが挙げられる。つまり、自分の父さんが幼かった頃の家業が自転車屋さんだったのである。「自転車」という、どの家庭にもある乗り物が自分にとって特別思い入れがあるのもこれが大きく影響しているのではないかと、自転車に対する使命感が漂ってきた頃になってようやく気付かされた。

とはいえ、技術的な意味で自転車のことに関する知識を教え込まれたわけではない。乗れれば十分だと感じていたところもあったため、知る必要が感じられなかった。パンクの対処はもちろんのこと、チェーンが外れたときでさえ何かに頼っては直してもらっていた。
そんな自分でも大学生となって、バイトでそこそこの収入が得られたとき、ついに自分で気に入ったロードバイクを買ってみようという転機が訪れた。通学の時などにママチャリの横をいとも楽々に颯爽と駆け抜ける得体の知れない乗り物を、いつか自分で操ってみたいという気持ちの積み重ねが表れたのだろう。それが大学二回生の夏休み一週間前の話である。

自分にとってロードバイクは決して安い買い物ではなかった。そうであったが故に、いわばこの自分に対する投資をなんとしても生かさねばという義務感が生じてしまったのかもしれない。夏休みを前にして、目の前には大きな時間の空間が待ち伏せている。この空間を埋めるのは自分次第だという想いが余計に自分を駆り立てた。

バイト先には、3週間の空きを許してもらうという申し入れを決断した。帰ってきてからも同じバイト先で働き続けるつもりだったから、我ながら大胆な決断だったと言えるだろう。大目に見てくださったバイト先の方々に感謝である。そうして自分にとって始めての長旅となる、東海道横断が始まった。

きっかけさえ作ってしまえばもう後は実行するのみ。これが発端となり、次の冬季休暇には南の方まで駆け出すことになる。文頭でも申した通り、結果から言うと北海道の札幌市から南の屋久島まですべて陸路で縦断することができた(夏:京都→札幌、冬:京都→屋久島)。その中でも多々紆余曲折はあったが、ここで語るとまた長くなってしまう。もし語ることがあるとすれば、それはそれでまた長大編の紀行文として仕上げることになるだろう。かくして自分の自転車日本縦断は実行され、実現することができたのである。

日本縦断実行中に徐々に次のステップが見え始めていた。霧島から鹿児島に降りて海を渡り、屋久島の縄文杉を見た後に宮ノ浦岳山頂にたどり着いた頃にはすでに次の旅の構想段階へと突入していた。京都に帰ると、新学期が始まろうとしていた。そのときにはすでにバイトを辞めて2ヶ月、職場にはなかなか顔を出しにくいところだった。それでも、去年の夏に自分を大目に見てくれた方々(特に係長さん)には何かしらのお礼を言わねばと思い、屋久島で居候したときにお世話になったおじさんから屋久島の地酒、「三岳」を取り寄せ、その一升瓶を持ってバイト先に向かった。これを渡せたということが最高に嬉しかった。勤務中で申し訳ないと思いつつも、バイト先の元同僚からは賛辞の言葉をかけられ、自分からもお礼の言葉を簡単にだが述べて、気が向いたらまた帰ってきますと言葉を残して職場を去った。これこそ旅の締めくくりにふさわしいとも思えた。

3回生の夏季連休は8月からであった。屋久島から帰ったのが3月下旬。一見時間がたっぷりあるように思えるが、前期に行われる工学部の実験や機械設計科目によって大きく自由な時間が削られることがわかり、また進級の条件がこの時期に大きく左右されるということがあるので、学業も怠ることができない。
前期は徹底的に学業と夏休みの準備に専念した。やるべきことを明確にしていく作業から入る。日本縦断の次は、アメリカ横断と心に決めていた。目指すべきは自分の小学校時代を過ごしたNY州のArdsleyという町。ゴールが明確な点で言えば、これが旅の原動力にもなり、後に大きな力となり助けられることになる。一方、スタート地点をどう選ぶかによって、旅の質がだいぶ変わってくる。まずアメリカの西海岸のどこにとろうかというのが一つあり、都市の規模から考えると、シアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルスが候補になってくる。次に、アメリカでも特に見たい、通りたいという場所を絞っていく。グランドキャニオンがどうしてもはずせない。となると必然的に北ルートとなるシアトルは候補からはずれる。そしてサンフランシスコかロサンゼルスが残る。が、これは簡単に決まった。観光地であれば、大人になってもまた来れるという意識ができてしまう。また、自転車の醍醐味というのは大自然の中を己の力のみで押し通すという意識によるところが大きい。町の周りをみてみると、ラスベガスまで至るまでに砂漠のど真ん中を通ることになるロサンゼルス。自分がここを通る時期、8月上旬といえば真夏である。これ以上過酷な環境はないだろうということを考えると、何か心の底から突き動かされるものがあった。灼熱の砂漠というものを経験してみたい。本当の地獄とはどんなものか見味わってみたい。自分の生きる力を試してみたい。そういった無謀な挑戦心のもと、出発地はLAに決定し、かくして人生初の乾燥地帯通過に対する予備知識と装備の準備に心してかかるのであった。


通常、耐久力と軽量化を兼ね合わせるキャンプ用品の類は割に高価であることが多い。旅の途中で物が壊れてしまえばそれが大きく旅に支障を来してしまう。道具選びは慎重に行わなければならない。
実は日本縦断で持ち歩いていた装備は寝袋からテントまではホームセンターで揃えられる品ばかりであった。これはこれでまた自分の武勇伝に書き加えれることだろうが、この装備ではしばしば限界を感じることがあった。特に山岳を通過するときには、見えざる力が後ろに働くのがわかり、それらは積んでる荷物の質量にきれいに比例するのである。また荷台が重ければ自転車にも負担がかかる。純アウトドア製品と比べれば質量対効果が断然違ってくる。今回通るルートを考えると、当然山も越える。信頼あるメーカーさんの物を使うと体力的にも精神的にも大幅にエネルギーが温存できる。ホームセンター装備を卒業しよう。そこで今回の旅では大手アウトドアメーカーのmont-bellという国産企業の協賛を得ることができた。特別価格で製品を提供という形で、財政面での補助を受けさせていただけた。支店で受け取ったカタログからよく考えて品を選び、後日遠征支援という名目でまた支店まで装備を受け取りに行った。

■使った自転車
実は旅の準備段階でもっとも苦労させられたのが、自転車の入手であった。実はこの自転車が手元に入ったのが横断一週間前。ほとんどぎりぎりだったのである。こうまでもして時間を詰めてしまったのには、理由がある。
先程述べたように、アウトドア用品に関しては協賛がついた。すると必然的に考え出してしまうのが、次は自転車にもつけようということだ。いろいろな自転車関連企業に企画書を提出こそしたものの、うまくいかなかった。このようなお願いは、つまるところ駆け引きのようなものなのだが、若干粘りすぎてしまったようである。切り上げる判断が遅れ、結果自分で調達しなきゃとわかったときにはすでに切羽詰まっていた。
自転車がなければ何も始まらない。そんな状況で、大阪の田川サイクルという個人経営のお店の所まで足を運んだ。昔から知っていたお店で、そこの店主、田川さんという方に頼んだところ、「そんな急には無理だ」と言われてしまった。
しょうがなく京都で探すこととなったのだが、その二日後に田川さんがなんと他のお店で見つけてくれたという報告が入った。大学の試験を挟み、その週末になってまた大阪に行くことになる。
見つかったのは、古いランドナーだった。フレームは黒のクロモリ鋼、フェンダー付き、24段の変速機。ミヤタ製。それを田川さんにカスタマイズしてもらい、部品だけ新しい物に換えてもらった。分解の仕方、組立方もしっかり手に覚えさせた。輪行袋に入れ、京都の自宅に持ち帰る。何もかもが急ぎ足だったので多少気にかかることはあったものの、とりあえず一式の装備がそろい、ここで準備はひと段落。文字通りホッとした。

最初の関門は何と言っても、自転車と荷物と自分とを今回の舞台の始まりとなる、LAまで運ぶところである。それも国際便の荷物の取り扱いの話などを聞くと、どうやら自転車の梱包に工夫を加えなければ、なかで揺れ動いたり、比較的デリケートであるスポークやフロントフォークが変形するといった部品の破損、それ以前に預かってさえももらえない心配があった。
後者の点に関しては電話で確認をとり、荷重さえクリアすれば問題ないということがわかった。問題は前者の梱包方法ということである。時間がないので、輪行箱という便利な物を取り寄せる時間などない。勇気を振り絞り、今ある物で解決する方針をとった。
まず上空の気圧の関係でパンクしないよう、チューブから空気を抜く。中で部品が動くと面倒なので、タオルと麻縄を使ってパーツを固定していった。輪行袋と自転車の間に段ボール紙を挟み、さらにサイドバッグを緩衝材として、段ボール紙の隙間に入れた。特にデリケートの部分にはプチプチ君を。あとはもう無事を祈るしかない。
そして正気沙汰とは思えない程の量の荷物を持ち抱えながら、まずは関西空港のゲートまで進むのであった。

〜KIX→LAX〜

今回の旅は大きく分けて前半と後半とに分けることができる。前半はアメリカ西部の過酷な環境をいかに走り抜けるかとの戦い。後半は痛めつけられた自転車の故障といかに向き合いながら進んでいくか、であった。

■前半
ロサンゼルスを出発し、ラスベガス、グランドキャニオン、ナバホ自治区コロラドへと進み、ついには北米分水嶺を越える。残念ながらこの時点で既に他の交通手段を使ってしまい、すべてを自力で達成するという夢はここで消えてしまった。250kmも続くモハべ砂漠を駆け抜けるのは命の危険が伴うし、自転車の走れる道が地図上続いていなかったということもあったからだ。ここで自分が死んでしまっても何も生まない。小さな目的一つを命より先に優先すべきだという理由が見つからない。だからこういうときには新しい交通手段を自分で見つけることに考えを向ける。Greyhoundバスを使ったり、トラックをヒッチハイクして運んでもらったり。とにかくその場で考えなきゃ何も行動とれない状況になってしまう。
いわゆる「アメリカの大自然」にしっくりくる景色が多いのが西部である。砂漠や大渓谷や大砂丘、風化によって作り出された数々の自然の芸術。何億年前にできた地層の上に立っていると知るだけでロマンが止まらない。さらにその上を自分の力で駆けているというのだから、表現のしようがないような不思議な興奮を覚えた。
そこをちょっと越えると待ちかまえているのがロッキーである。がらっと自然が変わり、砂景色に打って変わって緑が増えた。ここが分水嶺だということを知ってしまったからには、もう登らざるを得ない。コロラドの真ん中を突っ切るgreat divideを5時間かけて亀のようゆっくりと登り、なんと降りるときは30分もかからなかったと思う。。


■後半
前半でだいぶ自転車にガタがきたせいか、パンクが日常茶飯事となった。それだけでなく、ハブの軸がゆるむ、保護フィルムが破損するといったトラブルに多々見舞われるようになった。オハイオ州を通過し、ウェストバージニア州の山岳地帯を越え、到着したのがアメリカの首都、ワシントンDC。ここで観光を3日ほど。スミソニアン博物館群やホワイトハウスリンカーンメモリアルなどの有名場所はすべて抑え、DCの町を満喫した。そして首都を発ちペンシルバニア州のランカスターという地を訪れ、そこからNYまではAMTRAK鉄道を使って入ろうと決断した。都市部は車が多いだけでなく、路側帯がきちんと設けられていなかったり、歩道を見失ったりする場合が多い。またマンハッタンは地理的に言うと島であり、橋は架かっているはものの、自転車で通れるかどうかの情報が少なかった。荷物を抱えた自転車は当然車にとって迷惑がられる存在となり、それまでにアメリカの車社会を見てきたが故に、ここは鉄道を利用しようと判断した。何よりも、混雑した路上でパンクなどしたらと考えただけで恐ろしくなった。今までのパンクの頻度からして起こりうる可能性が十分にある。LancasterからマンハッタンのPenn Stationまで輪行することにした。

■NYにて
Penn Stationの地下から一歩でると、そこはもう大都市のど真ん中であった。マンハッタンの上空にそびえ立つ摩天楼を見上げただけで、感慨深いものがあった。
そして案外時間には余裕があった。着いた当日から一週間、10月1日の便で帰るまで十分に観光も楽しめた。そして、ここに飛び入り参加として自分の母が遠いドイツからわざわざ迎えにきてくれたのであった。親子そろって何をしてるんだか。
ここまで来たからには、なんとしても昔の友達に会いたい。事前にfacebookで呼びかけはしていたものの、アメリカの大学事情のことだから、みんな故郷を離れてるんじゃないかという懸念があった。アメリカでは授業が9月から始まることもあり、友人と再会するのは絶望的かとも思われた。その懸念通り、大方はNYを離れ、大学で勉強していたり、働いていたりだった。だが、数打てば当たるものだ。そんな時期でも幸い二人の友人と都合を合わせることができた。
一人はマンハッタンの寿司屋で働いてる友達。都内を案内してもらえた上、その働いてる寿司屋でごちそうをいただいてしまった。その数日後、自分の過去に住んでいた家を訪れたときに、そこの近所で小学校時代に同じクラスだった友人と、10年ぶりの再会を果たすことができた。自分の故郷で友人と巡り会わせたことの幸運。ここでの出来事の連続がこの旅においての最高の締めにふさわしいと思った。


■帰ってから
なにより、事故なし怪我なしの旅を送れてよかった。つい2ヶ月前までは不安や疑問で気持ちだけでも折れそうだったというのに。帰ってきた後の、かつて味わったことのない「達成感」。もとより、生きる力とは何かを知ることを基軸として今回の計画は行われていた。自分の尊敬している科学者の一人として野依良治さんという方がいらっしゃるのだが、その方曰く、「生きる」とは「ヒトとして生命維持をする」「社会における人間として自己実現をする」の2つの意味があるということだ。その言葉を見据え、自分を成長させる物は何か、何に目を向ければよいのかを常に探し続けていた。

今回の自分にとっての長旅に当たって、自分の慣れ親しんだ環境から断ち切る勇気を必要とした。当たり前のことだが、言語がちがう。文化がちがう。習慣が違う。食文化がちがう。居候したときには、無礼のあたらないよう、常にその点で注意を怠らなかった。そして日本人と聞いて差別的な態度をとられることは幸い、なかった。
旅のだいぶ後半になるまで、携帯端末を持ち歩かなかった。親や友人との連絡しかり、ネットの情報しかり、自由に情報のやりとりができない。町について最初にすることが、ガソリンスタンドでその町の電話帳を引っ張りだし、必要と感じたお店の住所と電話番号をメモすることだったこともある。ネットを使えることがあるとすれば、ホテルのロビーに希においてあるパソコン端末や図書館(public library)を探すしかない。ネットカフェという便利なものはよっぽど探さない限り、見つからない。あったとしても、日本のような居心地の良さは期待できない。また、パソコンがあってもそれで日本語が表示できるかというのは別の話である。知り合いや家族から連絡がきてるのに、それが宇宙から飛来してきた暗号かのごとく謎の記号の羅列として表示されているのを見たときには、いっそ見ないほうがマシだと思うことがよくあった。日頃使い慣れてると思っていることがふっと使えなくなる恐ろしさを知った。
そのような理由もあり、親には現地の公衆電話から連絡を取っていた。どの町にもあるとはいえ、携帯端末の進化により公衆電話の個体数が減少している。たまたま入ったガソリンスタンドに、公衆電話があり、ちゃんと動いてくれて、ボタンも全部反応してくれれば運がいい。またアメリカには公衆電話用のペイカード(日本でいうテレカ)があり、公衆電話をみつけてはドイツに住んでる両親へ電話をかけていた。国際電話をかける際には国際番号認識+国番号+電話番号をダイヤルしなければならないのだが、毎日のように連絡をとっているうちに知らずにこれを暗唱できるようになっていた。しかしもちろん端末を持ち歩いていない自分に、向こうからかかってくることはない。
また、2ヶ月を一人で突っ走るにはそれなりの忍耐力が必要となってくる。まともな食事をとれなかったり、山を下りたらまた山だったり、暑かったり、寒かったり、人恋しくなったり。その中でも特に気力が折れそうになったのがカンザスを通過してるときであり、五日間地平線をひたすら追いかけるという作業が続いた。地平線しかない景色。強力な横風(北米で竜巻の頻度が最も高い地域)。パンクし続ける自転車。神様が自分に試練を与えてるのだと考えでもしないと、不運の連続で精神がやられる一方であった。

事を成し遂げることに関して、アイデアというものは誰でも持っている。ただ、それを実行できるかどうかに人の器量というものが現れるような気がする。実行に至るモチベーションを作るプロセスを忘れてはならない。やるかやらないかを決めるのと、やるべきことを実行するかしないのかを決めるのとでは意味が大きく違ってくる。
そして、すべての行動には目的が伴う。だから自分のとった行動すべてには明確な目標があると考えるべきである。たとえ自分がそれに気付いていないとしても。そして目標を明確化するのが必ずしも先行しなくていいと自分は考える。ときには、自分の主観から離れてみるのもいいだろう。

最後に、この長旅を実現するに至って、大勢の知り合いからの励まし、協賛企業や親戚のいろんな方からの援助、そして健康な体に生んでくれた両親に感謝の言葉を申し上げたい。見守ってくれてる人がいるからこそできることがある。もしまた自分が遠くに出掛けることになったら、申し訳ないが、また様子を見てやってくださいな。